坂嶋流記録庫

Inverse Archives

陳浩基『世界を売った男』(文藝春秋)

 記憶喪失は物語の自由度を広げる。
 記憶が失われた部分には、数多くの物語が嵌まる可能性が存在する。その〝可能性〟は多くの展開を想像させうるため、固定された先入観が読者に根付きにくい。そして読者に先入観がない状態は、終盤におけるどんでん返しの不発を誘う。
 よって、記憶喪失は自由度が高いゆえに本格ミステリとの相性が悪いというのが僕の認識だった。
 しかしこの本はその認識を覆した。
 記憶を失った主人公は手帳を見返し、記憶をたどり、かつて起きた事件について新たに調べていく中で、失われた物語の可能性をただひとつに収束させていく。地に足の着いた捜査を行うことで、失われた記憶に嵌まる真相はただひとつしかないと読者に信じ込ませることに成功するのである。
 主人公が多くの伏線とともに記憶を取り戻したとき、読者はこの作品が本格ミステリの優れた建築物だと気付くだろう。数多くのエピソードによって複雑で精緻な土台が作られ、その上に意外な真相がそびえているのだ、と。

books.bunshun.jp