風に吹かれて
潮の香りを運ぶ風を、突然の汽笛が切り裂いた。
ホームにいた私は慌てて電車のドアを開け、中へと入る。
それとほぼ同時にたった1両しかない電車は動き出した。
空いているシートに座ると窓の外を見つつ、足を延ばす。
平日の午後にもかかわらず、乗客はほとんどいなかった。だから私はひとりにも関わらず向かい合った2つのシートを独占した。
釜石駅発盛行。
三陸鉄道南リアス線は1両編成で運行している。
もともとこの路線は三陸沿岸部を電車で繋ぐという住民の悲願のため、JRが鉄道を作るつもりで計画を進めていた。だが、着工の直前になって採算がとれなさそうだという理由でJRは手を引いた。そのため、周辺の市町村が資金を出し合って株式会社を作ったのが三陸鉄道の始まりだ。
それでも釜石に製鉄所があった頃――人口の多い時代の経営は良かったらしい。
だが90年代に入って釜石製鉄所はその灯を消した。
人口の減少は加速し、三陸鉄道の収益は減っていった。沿岸を南北に繋いでいた鉄道はいつしか、国や県の補助金なしでは成り立たない路線になってしまったのだ。
そのあげく、4年前の東日本大震災である。
完全に赤字路線と化していた三陸鉄道は、沿岸の市町村を結ぶという性質上、海沿いを走っていた。そのため、津波の被害から逃れることはできなかった。
電車は波に呑まれ、線路は寸断され、駅舎は流された。
一部の路線はすぐ運行を再開することができたらしい。
だが被害の大きな路線は復旧に3年かかり、去年の春になってようやく、三陸鉄道の全線が運行再開することになったのだ。
私がこうして大船渡まで電車で移動できるのはすべて、三鉄の全線復旧のおかげである。
大船渡市には大船渡駅と盛駅がある。JRの中心は大船渡駅、三鉄の始発は盛駅、といった感じだ。
電車は釜石市の海岸沿いを南下していく。
五葉山のふもとを通る電車の外には海が広がっている。
谷間の奥を、そして入り江の奥を走る電車だ。
かつてと同じ線路を進みながら、かつてと同じリズムを電車は刻んでいる。そのリズムに体を任せながら、窓の外に目を向ける。
太平洋が広がっている。
当然のように水平線まで見渡せる大海原。数羽のカモメも、いつものように海上を舞っていた。
平穏な海。
膨らむことのない海。
「海よ。希代の殺人者よ」というセリフが唐突に浮かぶ。
自分で考えた表現ではない。けれど、どこで読んだ文章なのか、誰が書いた言葉なのか私は思い出すことができなかった。
目に映る青い海も空も、白い波も雲も、かつては美しい景色と感じるだけだった。美しい景色も表情を一変させ、恐ろしい一面を見せることがあると、私は知ってしまった。
4年前。
同級生は家を失い、友人は父親を失い、恩師は妻を失い、母親は同僚を失った。
地元を離れ、関東で暮らしていた私はひと晩中眠ることなく、NHKで繰り返される釜石湾の映像を見続けた。これまでの人生のなかで、あの一晩ほど記憶に焼き付いている夜はない。
眉をひそめ、目を閉じる。
海を見ているとどうしても嫌なことを連想してしまう。
私は鞄からスマホを取り出し、適当に操作し始めた。
時間を潰すにはこれがもってこいだ。
本も鞄に入れていたけれど、何かを読むには胸がざわつきすぎている。おそらく作品に集中なんてできやしないはずだ。余計なことに目を向けることなく、思考を停止させるには文明の利器に限る。
だが、何も考えずに操作していたのがいけなかったらしい。
私の無意識は書きかけのメールを表示させてしまった。
送信することのできないメール、だ。
[件名:明日の風
本文:強そうだけど、電車動くかな?]
ただそれだけのメール。
ただそれだけのメールが、送信できなかった。
本文を書いてから送れないと私は思い出した。
送り損じた1通のメール。
それこそが、心の鍵だった。
あの日の記憶が脳裏へと甦る。
陽炎のように揺れている思い出。
そして懐かしき友の笑顔が浮かぶ。
心の奥底に刻み込まれた後悔の記憶。
それは1999年、3月のことだった。
海から吹いてくる強い風が、髪をなびかせた。
私は隣を歩く友人に目を向ける。
浦島さくら。
大船渡中学での3年間をともに過ごした友人だ。家が近かっただけでなく、同じクラブにも所属していた。私にとって一番の友人なのは間違いない。おそらく、彼女にとっても。
だが私と彼女は今日の卒業式を最後に離ればなれになる。
私は親の都合もあり、中学卒業と同時に釜石市へと引っ越すことになっていた。私は釜石市にある釜石南高校へ、さくらは大船渡にある大船渡高校へ、それぞれ進学が決まっている。
そして今日は大船渡で過ごす最後の日――卒業式だった。
卒業式は午前だけで終わる。
あとはお昼を食べ、ひとりで駅に向かう予定だった。だが予定は予定に過ぎず、駅へと歩く私の隣には親友が並んで歩いていた。
3月の中旬。
私は友人と一緒に盛駅へと向かっていた。
「大船渡とも、これでお別れかな」
風に目を細めながら、私は呟く。
私たちが同じ学校に通う日常も、もはや過去のものになってしまった。これからは別な道に進むことになる。
「引っ越してもさ」と、さくら。「電車に乗れば1時間もかかんないんだから、いつでも大船渡に来れるでしょ。これが最後になるわけじゃないって」
「大船渡まで移動するの、めんどくさいよ。さくらの方が釜石に来ればいいじゃない」
そういってさくらの顔を見つめる。
初めて会ったときは、なんて大人びた中学生なんだろうと感じたことを思い出す。そのとき大学生くらいに見えたさくらは、今になっても変わらず、私よりも年上の女性のように思える。
しばしの沈黙が2人を包む。
ずっと友人の顔を見つめているのも気恥ずかしく感じ、前に目を向けるのとほぼ同時に、さくらが口を開いた。
「私は……行けないから」
「えっ」
私が驚きの声を上げても、さくらは言葉を続けない。
行けない、とはなんなのだろう。
行きたくないでも、行かない、でもなく。
行けない。
そう言うからにははっきりした理由があるに違いない。でもさくらが自ら口にしないなら、私の方から聞くこともできない。
「お母さんは、仕事?」
さくらは明らかに話を変えたがっていた。
「うん」私は渋々答える。「今日もかなり遅くなるみたい。新居の準備はできてるから先に行っておいて、だってさ」
「そっか」
それだけ言って再びさくらは口を閉じる。
駅までといっても、大きくない町なので20分も歩けば着く。
それでも、無言で歩くには長い距離だ。
数キロしかないはずが何百キロも離れているようにさえ思える。
家が近かった私とさくらは一緒に登校したし、クラブも同じだったから下校も一緒だった。体育大会で疲れようが、テストでへこんでいようが、会話が絶えることはなかった。
だからこそ、今日の、この無言は堪えた。
引っ越しさえなければ、私が釜石に行くこともなく、大船渡高校でさくらと一緒の高校生活を過ごすことができたかもしれない。
だが、私の運命はそれを許さなかった。
私は釜石に行き、さくらはそのまま大船渡に残る。
今後、話をする機会が減るのは確実だ。
もしかすると今日が最後の可能性だってありうるのだ。
それなのに。
別れの日、さよならも言わずに地面を見つめているのは嫌だ。さくらとの会話がこれで終わってしまっては、絶対にいけない。そう心で感じてはいても、私はひと言も言い出せずにいた。
駅前の大通りも長い距離ではない。
少し歩くだけで小さな駅舎に到着する。
そして私が釜石行の切符を買おうとした、そのときだった。
「あのね」
さくらにしては珍しい、小さな声だった。
「あんまり言いたくないんだけど、聞いてくれる?」
私は出てきた切符を取りながら、頷く。
「私の祖母がね」そう言いながら、さくらも入場券を購入する。「5年前の、三鉄に乗ってたの。2月22日の」
それが何の日なのか、言われるまでもなかった。
ここで暮らしてきた私たちの心に刻まれた悲しみの思い出。その日付は、5年の時が過ぎた今になっても忘れようもない。
ホームへと向かいながらさくらは話を続ける。
「三陸鉄道史上最大の事故――強風による車両の横転。
それに私の祖母も乗っていたの。怪我自体はそれほど深刻なものじゃなかったんだけど、それ以来電車に恐怖を覚えるようになってしまてて。
それだけじゃないの。
家族みんなに電車に乗ることを禁じてしまったの」
そこまでなのか。
「たかが事故でそこまで、って感じもするでしょ? でもその命令が私たちを縛っているの。物理的な拘束力はなくても、祖母への愛情がある限り、電車に乗ることに後ろめたさを感じてしまう。それは事実なの」
私は静かに頷いた。
さくらの話は理解できる。
祖父はかなり前に亡くなっているから、家族の中で最高齢である祖母に逆らうことができないのだろう。後ろめたさを感じてまで電車に乗れない、それが家族に課せられたルールなのだろう。
そして、電車を使えないという前提を認めれば、釜石に行くことができないという発言も自然と導かれる。高校生にとって長距離を移動する足は電車しかない。そしてその電車を禁じられてしまったさくらには、釜石まで来る方法がない。
だから、さっきはあんなことを言った。
「そういう理由があるから、私が釜石に行くことは、たぶんないと思う。でもそれは会いたくない、とかそういう理由じゃないから」
私は頷く。
なんと言えばいいのかはわからなかったが、それでも自分の気持ちは伝えなければと感じたのだ。
「さくら。あの、」
『まもなく2番線より……』
言葉に迷っていると、乗車を告げるアナウンスが私たちのあいだを通り過ぎていった。
あのとき、私はさくらに何も言えないまま電車に乗ってしまった。
またね、くらいは言ったような気もするが、友人に伝えるべきこと、答えるべきことを口にしなかったという思いが強く心に焼き付けられていた。
今になって思う。
さくらの声には小さいながらも芯のある強さがあった。
なのにあのときの私は何と言うべきか答えが出ないまま旅立ってしまった。
私が釜石に引っ越し、高校生になってからもさくらとの親交は続いた。電話で話もしたし、手紙のやりとりも何度かしたし、メールでも言葉を交わした。
それでも。
それでも彼女が駅でしていた話題を持ち出すことはなかった。
私の方から話を振ればさくらは返してくれた、と思う。
その一歩を踏み出す勇気が私にはなかった。
たとえ物理的に離れていたとしても、今までのように仲良くやっていける、そう思っていた。
だから……わざわざ古い話題を出したくはなかったのだ。
もちろん、ただの言い訳に過ぎない。
こうして中学卒業から17年が経ち、同窓会のために大船渡に向かっている今も、あのときの後悔を持て余している。
あのときは盛から釜石へ。今回は釜石から盛へと向かっているという違いがあるとはいえ、同じ路線であることに変わりはない。
あのとき初めて乗った三陸鉄道に、私がその後乗らなかったのにはそんな理由があるのかもしれない。
憂いの残る線路には目を向けず、ただただ前を見ていたかった。
あの日以来、三鉄に乗ることはなかったのだけれど、今回はどうしても乗らなければ大船渡に行けないことがわかり、しぶしぶ乗ることにした。
だから今日が人生で2回目の乗車である。
それなのに。
海を見てはため息をつき、スマホを見てはため息をつき。
そんなことをくり返してはただでさえ憂鬱な気分がさらに落ち込む。そしてそのことを知っていながらもため息をつく自分に嫌気がさしていく。
そう。
ため息といえば、思い出すことがひとつある。
あの日さくらと別れ、三鉄に乗り込んだあとも、私は何度かため息をついた。
後悔のため息。
自分自身に失望したため息。
言うべきことを言えなかったため息。
窓の外に広がる青い海原とは真逆に、どんよりとした気分だった私は、知らず知らずのうちに周囲へと負の感情を振りまいていた。
思わず出てしまったため息。
そのため息が、あの少年との出会いを導いたのだ。
「はぁ……」
周りに聞こえるくらい大きなため息が出てしまった。
これから釜石で始まるであろう新しい生活に、釜石南高校で始まる新しい出会いに、心を弾ませることはできない。
制服のスカートの裾を握りしめる。
これから釜石での生活が始まる。なのに私の明日は真っ暗だ。
ただでさえ不安の多い引っ越しなのに、私の心には1本のトゲが刺さっていた。
心が残りなさくらとの別れ。
私は軽く首を振りながらため息をき、車内に目を向ける。
平日の昼間にも関わらず車内にはわりと乗客がいた。空いている席はほとんどない。私の向かいにも、同い年かひとつふたつ下くらいの男の子が座っていた。
少年と目があう。
するとそのタイミングを待っていたように、彼は話しかけてきた。
「大船渡の中学生ですよね?」
私は眉をひそめる。
知らない男の子から話しかけられたのだ。戸惑わないはずがない。
「えっ」
眉をひそめながら改めて彼の姿を見る。
ジーパンを履いているのはわかるが、上はダッフルコートに隠れて何を着ているのかはわからない。顔立ちは幼く、体格もほっそりとしている。少なくとも運動部ではなさそうな感じだ。
小学校高学年か、中1くらい。それが私の見立てだった。
いや、そんなことはどうでもいい。
彼は私が中学校の生徒だと言っているのだ。しかも大船渡とまで言い当てている。
どうしてこの少年が知っているのだろう。
「前に会ったことあります?」
「いえ。初めてだと思います。僕の記憶にはありません」
私だって会った記憶はない。
「どうしてそんなことを思ったの?」
「あなたのコートの裾から制服のスカートが見えています。
それなら小学生ではない。もちろん大学生以上でもない。
よって2択。
中学生か高校生か」
少年はそこで言葉を止めた。次の言葉を探しているようだった。
「よく考えてみれば今日は平日、しかも14時前です。ふつうの中高生は授業中のはず。ピアス穴もなければ、髪も染めていないあなたが授業をさぼっているようにも見えない。
ならば答えはひとつ。
今日は午前で学校が終わる日だった、というわけです。
しかし高校は3月初めに卒業式があり、とっくに春休みになっています。離任式はまだ先――今月末ですしね。もしあなたが高校生であれば今の時期に制服を着るはずがない。
よってあなたは中学生ということです」
私は少し感心した。
見ず知らずのひとに話しかけてくる変な少年だと思っていたら、意外と細かいところにも目が行くようだ。
「ずいぶん理屈っぽいのね」
「僕は〝探偵役〟ですから」
ちょっとどころではなく意味がわからない。
現実に探偵という職業は存在するし、小説の登場人物としてであれば名探偵という存在も聞いたことがある。だが……。
「それからもう1点」少年の口元がわずかに緩む。「電車は片道1時間弱。学校が終わってから往復している時間はないので、あなたは釜石ではなく大船渡のひと。
……以上。証明終わり、です」
自慢げに話す彼の口ぶりが私の気に障った。
今の私は他人と話をする気分ではない。いきなり話しかけてきて私が大船渡の中学生であることを見抜いた自称〝探偵役〟の少年。そこまで不快ではないにしろ、落ち着かない存在なのも確かだ。
だから私は、彼をいじめることにした。
「君の証明には穴がある」
「えっ」
素直な少年の声。やはり、気付いていないのか。
「すでに春休みに入っているはずの高校生が、制服を着ているはずがない。君はさっきそう言ったね」
「は、はい」
「でも、そうじゃない場合があるの。
君はまだ知識が足りないようだから、ひとつ教えておいてあげる。中学生や高校生にとって制服は正装でもあるの。そして高校生が正装をするのは結婚式か葬儀に出席する場合がほとんど。
君は、これから結婚式に出るような格好に見える?」
そう言って黒のバッグを見せる。
そういえば着ているコートも黒だった。もちろん、すべては私の趣味であってそれ以外に理由はない。
だが彼を誤った方向へ導くには充分だったようだ。
「ご、ごめんなさい。もしかして今から誰かの葬儀に……?」
そう言って彼は頭を下げた。
自分のミスを認め、素直に謝る。性格は悪くないようだ。
そんな少年がおかしくて、私は声を出して笑った。
「えっ」
「ごめんね。
今のは嘘……というか、誤解を招く表現をしてみただけ。私は葬式に行くわけでも結婚式に行くわけでもない。あなたが言っていたことはあってたわ。
私は大船渡から釜石に向かう中学生。
……でも、君の目的はなんなの? どうして突然話しかけてきたりなんかしたの?」
「ひとを幸せにするのが〝探偵役〟の務めだと教えられてきましたから。ため息の多いひとの気分を少しでも晴らせれば、と思ったんですが……」
「そうね。〝探偵役〟にあるまじき所行だと思うけど、私に騙されたところは面白かったわよ。わりと細かく観察しているようで、推論に穴があるところも、ね。
でもそれならあなたは〝探偵役〟じゃない。ただの道化よ」
「謎解きに関しては落第でしょうね。でも……少なくともあなたに笑顔は戻りました。道化としては合格じゃないですか?」
〝探偵役〟の少年はそう言って胸を張る。
推理に穴があったくせに。私に騙されたくせに。
私が渋々頷くと、彼はさらに言葉を続けた。
「それに……風が強く吹いているからといって目を閉じたら前には進めない。嫌われることを恐れていたら人と親しくはなれない。
失敗を恐れていたら謎解きなんてできない。
違いますか?」
推理に失敗した〝探偵役〟はそう言って笑みを浮かべた。
あのとき彼が言ったことはまるで今の私に向けられた言葉のように思える。このタイミングで記憶が蘇ったのは何かの啓示なのだ。
ならば、私がすべきことはひとつ。
スマホを取り出し、メール画面を開く。そして下書きに残っていたメールを呼び出す。
もはや躊躇いはなかった。
さくらに――友人に嫌われることを恐れていたら前には進めない。明日が見えないからと言って目を背けては今日が見えなくなる。
私はメールを送信した。
そして返信を待つあいだ、海を眺める。
まるで悲劇などなかったかのように、漁船がぽつりぽつりと浮かんでいた。4年前のことを忘れているわけではない。忘れないように心に刻んで、それでも、漁に出ているだけだ。それが未来を紡ぐことだと信じて。
三陸鉄道はJRに見捨てられた路線とも言える。
沿岸部で唯一JRが運営していた釜石宮古間の路線も東日本大震災をきっかけに、三陸鉄道に経営が移った。三鉄が生まれた経緯も含め、JRは岩手県沿岸部を繋ぐ全路線から手を引いたことになる。
それはつまり、三鉄が地元の手による地元のための鉄道になったことを意味する。
津波の被害が拡大するために生まれたかのようなリアス式の海岸――ギザギザに入り組んだ海岸線を走る以上、課題は多い。というより、課題しかない。
それでも鉄道による南北縦断は確かな一歩。
だから私も、小さな一歩を踏み出すのだ。
握っていたスマホが着信を知らせる。
[件名:Re: 明日の風]
本文を見る必要はなかった。
その件名だけで私には十分だ。
Reとはリプライの省略形のこと。
だからReは〝リ〟とも読める。
繋げば〝リ明日〟になる。
つまりは、リアスだ。
私にとっての故郷だ。
奥深く入り組んだ海岸線。
そこでは潮の香りを運ぶ風が吹く。
今までの私は不安に包まれていた。
明日はどんな風が吹きすさぶのかわからない。
そう言っては、まだ見ぬ未来に怯えていた私。
そんな私へと友からメールが来た。
まだ見ぬ明日の風は吹いていない。
吹いているのはリアスの風なのだ。
吹いているのは故郷の、暖かい風なのだ。
車窓から海岸線を見る。
これが私の海。
これが私の風。
そう心に刻んだときだった。
勢いよく鳴り響いた汽笛を、風がかき消していく。
むかしの人が歌ったように、答えは風に吹かれている。
リアスの風に吹かれながら、三陸鉄道は沿岸都市を繋ぐ。
たとえ悲劇に襲われようと、たとえ喜びに満ちようと。
それでも、風は吹いている。
――了